姫野カオルコの少女(処女、未熟な女性、を性的事象想起を避けるために
少女と言い換えるとあとがきにある)3部作は、
いずれも主人公の年齢は30歳前後であるが
家の子供で「だけ」でいつづけている。
世に「恋愛小説」は多く、幸運にも成熟をとげた者たちは、強い共感を抱きつつ、そうした作品群を堪能できるのかもしれぬ。それら作品群に描写される「痛み」や「嘆き」や「悦楽」に。
だが、恋愛それ自体に到達できぬ未熟な、さらにいえば未熟でいなければならぬことを余儀なくされる環境にある人間も生息はしているのである。
年齢的に「少年」「少女」であれば、「社会はわかってくれない」と幼い反抗に出られるのかもしれないが、己の年齢を熟知すれば幼いふるまいはできないし、年齢とはべつに性格的に慎みを身につけていれば、できない。その結果、未熟をひた隠しにし、ひたすら「個」を撲殺し続ける。これはネガティブである。破壊に向かうしかない不運である。このような層に属していた者として、このような層を掬いたかった。それが「ドールハウス」を書いた動機といえるだろう。
(ドールハウス 角川文庫版あとがき 解説にかえて)
このあとがきは感動的なので出来れば全文引用したいところだ。
第1作はいちばん暗鬱である。泣くに泣けない悲惨さだ。
主人公の心にダイレクトに触れる人間なんて一人も現れないのだ。
優しさであれ悪意であれ卑怯さであれ
傷つけてくる人間はたくさん居るが
それがすべて的が外れていることにより傷つく。
これは寂しい。孤独でしかない。
第2作になると一転コミカルに。
30過ぎて処女であることを克服したいと
セックスをしてくれる相手を探して奮闘する主人公の
突き放した言い回しが笑いを誘います。
未熟さと老成した部分の落差が可笑しい。
この作品にはコミカルさと暗鬱さが共存し、そして何よりも
「とんでもなく孤独な主人公の心にじかに届く言葉を、
しかも誠実に発する人間」が
第3作目ではっきりと登場したことに私は感激した。
大人になることとは?人を愛そうとすることとは?ということを読むものに問う。それは、読者さえ孤独にはしておかない。
この3作のうちではいちばん好きな作品だ。
2005-07-18
少し加筆
trackback URL:http://georgesand.blog44.fc2.com/tb.php/29-308bc9e7
衝撃の「処女三部作」第一部。いやあ、ガツンとやられました。まさかこんなとてつもない小説家が日本にいたとは。これまで彼女の作品にあまり触れてこなかったのが悔やまれます。
...