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悪鬼!
それは人間の姿をした悪魔!
彼らは過去に住んで
未来に住まない!
あるいは心の病なのかも知れぬ
あるいは幼児期の虐待が原因かも知れぬ
だがどのような同情すべき
複雑な理由があるにせよ...
悪鬼は二度と人間に戻ったりはしない
絵空ごとの人権思想は
捨てる時代が来たのだ! 「幼児期の虐待」とか「人権思想」とか言うせりふが、どう見ても江戸時代の衣装をまとい、背景をしょった武士空洞ガランの口から出るこのズレにはにやにやせずにはいられません。
さらに、同情しようとしたらはぐらかし、
怖がろうとしたら笑わせ、
笑おうとしたら深刻になり、
ぐらぐらと眩暈がするような安定感のなさ。
非常にクールです。
帯謳い文句は「近未来アクション時代劇」です。
ということで本当の時代劇ではなくて、
何もかも架空の
「アナザータイム、アナザープレイス」の物語です。
特に、ガランが巡回死刑執行人となったいきさつの第6、7話では、
どの話よりもグロテスクな皮肉が込められており、私はさすがに背筋がぞっとしました。
それにしてもこのガランの危険な色気と相方の14歳の少女まゆのハードな色気はどうでしょう。生涯独身を誓ったガランはつきまとうまゆに指一本触れず、肉体美いっぱいの二人の絡みというサービスシーンはありますが夢オチです。そして、ガランはまゆに、亡き妹サナギを見ているのかと思えば、違うのです。ガランは、まゆに母性を見ているのです。
犯罪と司法の問題に一石を投じる理詰めの一作として考えてもいいけれど、
そういうのははずして大きな冗談として、
「感性で受けてはならぬ。もっと論理的になるんだ」のガランにさからってぐらぐらと楽しむのも一興かもしれません。
2006-07-22
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悪夢に悪夢が重なり、何層にも展開の目くるめく逢魔編です。無垢な夢、少女の魂の味方夢幻魔実也(大人版)。待望の新作。ささやきを胸に乙女は幸福に眠るのでした。
「僕の名は夢幻です。夢幻魔実也というのですよ」 以前の魔実也(大人版)は、もっと残虐で熟女をもっぱら相手にしていたものであるが、
最近ちょっとロリコン。
主線をわざと省いた描き方が懐かしい。古い作品では、高橋氏はこのタッチを好んで描いていたと思う。
2006-07-16
「帰りたい。汚い猿と寝るのはいや」
「犬と寝たのはもっとイヤだったろ?」
「パパ…」年のころ10歳になるかならないかの女児。
その人形のように小さな肉体ひとつにつき最低3人の中年以上の男達が群がる。
その中にときには肉親もまじる。
なんとも酸鼻な場面が続出、
その痛々しさの極地には唖然とするほかありません。
軽く、幼い体の周囲に、時には体内に疲れてたるんだ重い体のせめぎあうとき、
妙な儀式で呼び出されたひとつながりの怪物の姿のようである。
2007-01-11
双一って淵さんと結ばれるのですね。
なれ初めが知りたいような知りたくないような。
2007-06-04
「新耳袋」シリーズの漫画化作品。
私が好きだった「隣の女」や「朱の円」が
伊藤氏の美麗で怪奇なタッチで脚色、再現されているというゴージャスな1冊。
他にも見たいネタいっぱいあるなあ。
2007-06-04
表題作も壮大ですごい展開の長編だった。
腰を抜かしたのは同時収録の短編「億万ぼっち」。最近まったく誰とも私的に話さずに、引きこもっている私には重く感じられながら、ラスト1ページのワケの判らなさが!!
どういうこと?ときいてはいけない有無を言わせないおしまい。
2007-06-03
座敷わらしならぬ街わらし。家も常識も持たず、ただ無邪気に思うままに生きているおばけの話。
たまに人間のエゴにふりまわされたり、人間を不幸にしたり幸福にしたり、
で一定の役割もない。ものがなしくてたまらない。名作です。
2007-06-04
メキシコグッズ屋に行くと骸骨ミニジオラマが並んでいる。
身長大体5cm程度の彼らは生きている人間同様に、
いやもっと世俗的にいきいきと相互に関係をもちながら生活を送っている。
仕事に疲れて突っ伏してたり、ビーチで転がって日焼けしていたり、出産していたり、楽隊を結成したり、
葬式結婚式も執り行うのである。
いとおしいことだ。
年に一回かの地では骸骨祭りが開催され屋台で砂糖菓子の髑髏が並ぶという。
何を考えているのだろうか。ぜひいつか行ってみたい。
2007-07-01
7月ですね。もう初夏は終わりに近づき、
VOWが今年も出ました。
以前はたいていこれとナンシー関と新耳袋が同時に出て、
あまりの快楽に目が泳いでいたものですが
今残ってるのはVOWだけ。風物詩もいつか消えますね。
購入してさっそくナンタコス噴出しながら(お行儀悪し)読みました。
ところで私はこないだレストラン「食人」を見かけました。
名づけた人は何考えているのでしょうね。
高校生の頃「喫茶 一つ目小僧」が気になっていました。
入っておけばよかった。
2007-07-01
2009年12月追記
その後、ずいぶんとずれこんで
今年は11月発行になっているVOW。
他にも企画ものでテーマ限定の著名人寄稿多めの傑作選が出ている。
でもまだまだ誤植とか変な店看板はいっぱいあるに決まっているので
前みたいなオール新作、企画頁はほんの少しでめくってもめくっても
笑いっぱなしみたいなVOWも見たい。
こっちも刺激に慣れて疲れた頭で笑いにくくなっているかもしれないけど。
高橋葉介氏による
「喉笛かっきって自殺」
シーンは世界一美しい!と
痛感。
今回はムンクの作品を下敷きに連作の1冊です。さらに、あるアニメ作品へのオマージュも含んでいる気配。重層的な早川書房版3部作完結編。
定価もちょっと高い1300円なのですがよーく見ると印刷がとんでもなく綺麗な印刷なんですよ。
白黒が浮き立つようになってて。版画のようなタッチの場面も多数です。眺めるだけでも眼福。
書物として非常に美。なのに画像が貼れない。
さらに今回またかわいい少女達にミーハーにとりかこまれてアイドルスター状態ですよ、夢幻さん。
そのせいか、表情もゆたかで若々しくなってました。サービス精神だ。
2007-07-22
宗教、はまれたら幸せだろうなあと常々思っている。
しかし、性格的に向いていない。
それでも羨ましい。
いいなあ、信じるものがあって、幸せだろうなあ。仲間と一体感を味わえて、教祖を心から尊敬できて。
そんな私の興味好奇心を満たしてくれる良書がこちらである。
色々な宗教の聖地を巡り、臨場感と熱意あふれるリポート。
興奮しつつ読みました。特にあの私の愛聴しているとある曲が、実はあの宗教の歌として解釈できるなんて凄い話でした。あれ聴いてるとなんともいえない高揚感があるんだ。だからといって、宗教にははまらないです私は。体質的に。
非常に残念に思う。ほんとうに。
ところで関係される方々はあまり怒らないでいただきたいのですが、
東京に引っ越してめんくらったのが
色んなものが「手○ざ○」で操作できる。
これは某団体とは関係のあることなのでしょうか。
公共の場の水洗トイレは80パーセントこれです。
さらに、PCを新しくしたら、カードをかざして買い物できてしまうという浪費を誘う危険アイテム
「○ざし○ナビ」などという装置がついてきた。
いや、私は取り付けていませんけどね。
宗教って、面白そうだなあ。
でも決してはまりませんけどね。
教祖にならなりた…
あまり怒らないでください。ざれごとですので。
2007-02-06
私たちが、日常生活を送っている場所も住居だが、
ふいの病気にて療養生活を送る施設もまた住居である。住居のはずである。
しかし、ある特定の病気に罹患し苦しむ人々を、この日本という国を挙げて、偏見と無知と誤解による、療養所への強制的な隔離、収容ばかりではなく、
「反抗的」とみなされた患者達を精神的・肉体的虐待、拘束、さらには手術による断種という措置、絶対的な権力の懲戒検束件を持つ所長によって監禁される。苛烈な懲罰に苦しみ、正気を失い、やがては衰弱死していく。そういう事実がかつてたしかに多数存在したのだ。「医学」の範疇を超えた、病者の尊厳を奪う恐怖的な犯罪だ。
重監房の平面図が142頁に掲載されている。
これは住居である。標高1100メートル、鍵はかかり、窓は嵌め殺し、高さ4mの壁に囲まれ、四畳足らずの小屋はひとつずつ屋根のない空間により切り離されて、そこに雪が積もり、房内部はマイナス20度まで下がっても防寒具が与えられない。それでも人間が一人ずつ住んだ。強制的に住まわされた。食事を摂り、用便をした。そして極限状態の中で多くの人間が命を落とした。
「殺意を感じた」後に患者の一人はそういった。
殺意を感じさせる部屋。
人は知恵を絞って住居を作る。その知恵の内容には、いろいろな種類があるのだ。
何故、人を殺してはいけないのだろう。その問いに対して私は言葉が無い。人はこのように人を殺してきたのだ。殺しながら進化してきたのだ。医学は患者を救済するためのものではなく、危険な病原菌を体内に宿す患者を抹殺して制圧するためのものという側面も持っていた。
では今は?今も、形を変えて、その側面は生き続けては居ないのか?
私は読み終わったあと、生存している元患者の方々と、重監房という場所にスポットを当てコンパクトな新書にしたためた著者に敬意を表した。いっぽうで、慄然としながら。
北条民雄という患者自身の詩的表現で綴られるハンセン病療養の記録。名作。
2006-06-06
この小さな写真集を、ベッドに長くなって眺めていると、
なんだか私は背中に羽根が生えたような気分になった。
創造的に暮らすということは素晴らしい。
彼女達のとりどりのアクリル絵の具のような個性を、アパルトマンという限られた空間に思う存分ぶちまけて、まだ誰も見たことのないものを現出させるという作業がこのページの中で営まれていた。
カラフルであることはとても楽しい。壁を切り抜きファイルや、下着箪笥化しても構わない。平凡な大量生産の花瓶に、好きな言葉を書き込んでしまえ。真っ赤な文字で。可愛がっていた鳥が死んだら思い切って剥製にして永久に傍に置き、テーブルではないものをテーブルにして、靴には造花を、椅子には蜂鳥や孔雀の胸毛を取り付けるのだ。理想の品がどこにも見つからなかったら、強力に丹念に作り上げるのだ。
その上に、この写真集は嬉しい間取り図+面積表示、階数つき!
立体的です。読み心地快適です。日本と海外は所詮面積が違うから…自分のインテリアの参考になりっこない。なんていう偏屈屁理屈もクリアです。
それに、あれですね、パリとはいえ19㎡なんてお部屋は日本と変わりませんね。ただ、さすが11階などの高層にあふれる光には羨望です。
このへやべやの共通のパリパリとした雰囲気をまねしなくても、各人、日々室内構築の参考になりうる良書でした。
2006-06-05
葉と思って触れたらそれは昆虫であり、
昆虫と思って手に載せるとそれは葉であった。
混乱の森である。
特に、この書物の表紙にもあしらわれているマレーシア産のコノハムシの格好と来たら。何であんたそんなになるまでがんばったのって言って脱力しそうな姿だ。ましてや、豊富に収載された実際に森の中に隠れている写真を見たら笑ってしまうほどである。
ちゃんと枯れたとことか、虫食いまで表現して葉になりきっている。顔までも昆虫離れの、植物的な簡素さだ。
私が好きなのは
メキシコのアゲハチョウの幼虫のセルリアンブルーと、
目に光をたたえて苔に擬態しているバッタの顔のアップである。
珍しい昆虫の姿でいっぱいの文庫版写真集。虫好きさんも虫嫌いさんもどうぞ。楽しいので。
2006-06-07
今日、てんとう虫の刺繍の入ったコースターを2枚買った。
でもよく考えたらてんとう虫は昆虫である。さわるといやなにおいの液まきちらしたりしてびっくりするのでさわらない。敬して見つめるのみである。カメムシに近いのだと思う。本当に、お茶のわきにこれが歩いていたら可愛いけど慌てる。
虫は、ムカデ以外はほとんど得意だ。否。毒さえなければムカデすらプラモみたいでポップであるとすら思う。
むしろ私は虫ストーカーであるが。このところ良い気候なので、色んな虫があちこち出現して嬉しい悲鳴である。
しかしやはり彼らは人間とは異質なものである。さて以降BGMは「昆虫軍」で。
以前ニュースで、みつばちやてんとう虫を利用して果樹野菜の栽培をしている
農園のニュースを見たが、なにやらありえない共存が平和なかたちで上手く回っている小さな宇宙を見つめるようでもあり、ホノボノとした。
そんな虫たちとの触れ合いを描いた「むいむい」。
西原理恵子の数ある著作の中では、私はこれが一番気にいっている。虫に感情移入しつつもつきはなすというりえこさんと虫たちと、虫と関係ないようでいて実は「結婚おめでとう。人間は虫のようにくっついたりはなれたり」(シールブックより)な周囲の人間関係との埋められない明瞭な距離感を、薄いハードカバーたった1冊というコンパクトな紙幅に荒くもカラフルに過不足なくかきなぐった渾身の傑作である。ファーブル昆虫記にも匹敵する。
2006-05-06
やはり17歳の夏、私はドリアンが年を取らなくなったことを興奮気味に図書室で友人に語った。
友達の意見は冷めたものだった。
「そのままの状態で年を取らなくなることが幸福だなんて-
よほど自分が好きなのね」
ちょっと自分が子供に思えた。
私は夏休みの涼しい畳敷きの家で、「サロメ」を暗唱して、祖母にあきれられる。私は美男との接吻どころか、誰の指先も触れられないほど醜い、書物にうずもれた女子高校生だった。
「私はお前の唇に接吻したよ、ヨカナーン。
お前の唇は血の味がした…
ことによると、これが恋の味だったのかもしれない。
ああ、そんなことはどうでもいい、どうでもいい。
とにかく私はお前の唇に接吻したのだよ、ヨカナーン」
いわば、その椅子が、人間一人の部屋になったわけでございます。
(「人間椅子」)
そのまるでお化けみたいな顔面のうちで、わずかに完全なのは、周囲の醜さに引きかえて、こればかりは無心の子供のそれのように、涼しくつぶらな両眼であったが、それが今、パチパチといらただしく瞬いているのであった。 「芋虫」
17歳の夏、私にこの芋虫の瞳のつぶらさについて語った友人は、今頃どうしているだろうか。ミユキさんだったか、チエコさんだったか、
もう忘れてしまった。
2006-05-05
十八世紀ヴェネチアに生まれ、ヨーロッパ各地を放浪し、ひとつところに執着しなかった自由人。
軽やかさとはなやかさ、おおらかさを愛し、刹那的な性の快楽に美と生命を強く見いだしたロココの時代の申し子、ジャック・カザノヴァ・ド・サンガール(注・フランス語で書かれた原著の筆名)。
これは一人の人間の晩年に書かれた主観の記録であるが、詳細さ、長さ、巧みさによって、今はもう過ぎてしまった歴史の再現の物語である。しかも、空想小説でもなく、実際にあったことということが明らかである。
その大きさを支えているカザノヴァの語り口の明るさ、夢を見ながら覚めている人の軽さは、ほんとうにいい。
世界の人たちよ、私は大空に向かって話しかけるのだ。 「はじめに」にある一文である。この「はじめに」は全文すばらしい。
私はまだこの文庫本にして全12巻にわたる記録を2冊しか読んでいない。
これから何が始まるのか、だいたいのことは知っているのに、その詳細な部分を知りたくて仕方がない。
2006-07-31
4月末の旅行に携行していった文庫。
イタリア観光物として読み進んでいたのに
後半作品はいきなりかなりあくどくどぎついおフランスポルノになったので仰天しました。
しかも全訳ではなく
残りのあらすじをあとがきで知るという生殺し状態。
後半の方が面白そうだ。読みたいじゃないか、どうしてくれる。
なんか裏切りとか国際情勢絡んだスパイ合戦とか拷問場面とか始まるらしかったです。
そのせいかどうか高速バスに酔い、
しかしサービスエリアに着くまで吐かない。人間できてるから。
長距離バスという閉鎖空間でのブリングルスはもうよそうと思いました。
2007-06-03
日常生活にわたしは魅力を感じない。強烈な瞬間だけを求めている。
…ヘンリーはいう、「日記をしまって自由になりたまえ。きみにしてほしいのは日記なしで生きることだ、きみは他のことを書くようになるよ。」
そんなことをしたら私は殻のないかたつむりになったような気がするだろう。…
アランディ博士は、人生によく耐えることが必要だ、ロマンチストは人生に敗北する、昔のように結核になるにせよ、最近のように神経症になるにせよ、敗北して実際に死ぬのだ。といった。それまでわたしは神経症とロマンティシズムの関連性など考えたこともなかった。不可能なものを求めるのだって?それに到達できないときは死ぬのだって?妥協することを望まないのだって?
…着るものは以前はわたしにとってはきわめて象徴的なものだったのだ。まず最初に詩的意義があった。…わたしを他の女たちからきわだたせる、目だった服装がしたかったのだ。
…
…わたしたちは街路の一部だ。ヘンリーとフレッドとわたしの三人が食べているのではない。人であふれた街路が食べ、喋り、飲んでいるのだ。全世界が食べたり飲んだり喋っているのだ。わたしたちは街の喧騒をも食べている。人びとの声、自動車、売り子の呼び声、子供の泣き叫ぶ声、鳩の鳴く声やはばたく音、犬の吠える声を。わたしたちはみんな一つに溶けてしまった。…
わたしは男を創造者、恋人、夫、友人としては愛するが、父親である男は信じない。父親としての男は信用しない。 アナイスの日記は、分厚くて一気に読むには疲れそうなのでランダムにめくって読んでいた。
私は、アナイス・ニンの創作作品は実は良く判らない。全部読んだわけではないけれど、そんなに心に響かない。
だが日記は楽しむことができた。抜粋を自分の日記に写しながら読んだ。
また何度も読み返したいくらいだ。
2007-06-04
都会に出た女が結婚をせず、子どもを産まず、恋愛もせず、一生勤められるという保証もなく暮らしていると、40歳前後で急に妖怪になってしまう…。
笙野頼子氏1998年作品。
これ読んだときは「そいつは恐ろしい」と人ごとでしたが
今は笑えない。しかし文庫化されてないんですね、絶版とは残念なことである。
2007-06-04
ある春の日暮れ
八重桜の梢を見上げていると、澄んだ空が張り詰めて破れそうなうすい菫色をしていて、
ちょうど月が唇の形をしてほんとうににやりと笑っていた。左下に金星がほくろのようにきらきら輝いていた。
あ、顔なんだなあと思った。
稲垣足穂の「一千一秒物語」と「第三半球物語」を読みたくなった。
トンコロピー。お月様に夜道ですれちがいざまに唇奪われる。月のまろうどが車から冗談みたいにぞろぞろ出てくる。土星が酒場で泣き上戸からみ酒。
重要な場面はすべて頭の中に刻まれて私はもうページを繰らなくてもいつでもあの童話の天文学者の世界に入ることが出来る。擬人化されきまぐれに地上に降りた星々。
短編では「カールと白い電燈」、「黄漠奇聞」、あといろいろあったなあ。
足穂童話はとてつもなく美しい。奇跡みたいだ。たまに独壇場の足穂節エッセイもいいが、意味不明すぎるときがある。慣れればそれも面白いが最初は鼻じろむ。それを1冊の本に一緒に突っ込んでいるのも足穂趣味だろう。
で帰ったら部屋がカールと白い電燈状態だったので借りてきた本読めないじゃないかーと眠い目こすりながらスーパーに走って電燈入れ替えて夕寝しました。
2007-06-03
端正な絵柄で丁寧に描かれる陰惨な物語である。
このような設定をした作者の意図を想像すると
非常に暗い気分になる。
ただ、包帯だらけで横たわるやせっぽちの10代の少女の
剥がれたガーゼの下からは欠損した乳首とか
えぐられた眼球が転がり落ちるとか
それらはエロスである。性的に興奮するものなのである。
そしてさらに暗くて嫌な気分になる。
うん…動けるよ
…私頑張ったよ
なぜこんなせりふをあの場面で吐かせるのだろう。不愉快である。
そして、こんな妄想をかたちにしてしまうことの必然性はどこにあるのだろうとまた考える。
私が…もっと綺麗だったら…
ああ…もっと綺麗な魂を…
持っていたら
私は心底、憎悪を感じた。憎悪しながら興奮した自分も嫌だ。
お奨めはしない。
帯文句の「怖ろしく壮絶な悪夢」というのは
徹底的な法律に守られた立場からの
弱いものに対する暴力への
ただの卑小なあまやかしだからである。
2007-12-29
極道による京舞妓の水揚げ、かなわぬ舞妓の恋、刺青と肉体改造と正妻になるための性的な儀式。さらに舞台が昭和18年。バケツリレー。念入りな設定で最初から最後まで大変楽しみました。
水揚げ直後のヒロインの
「おかあさん、うち、花を生けに来て、うっかり長居してしまいました」
というせりふが好きだ。恋の為にだましうちの無理強いの水揚げを無かったことにするその強い精神が心地いい。
ヒロインはそんな風に強気な性格であるが、あの手この手の開発調教で尋常ではない快楽に目覚めていく。恋をした相手との肉体関係には満足できず、それでも恋人への赤紙の撤回との交換条件に極道の妾となる。そんな中でこまやかに描写される感情と小道具。
そして舞妓の衣装の描写の詳細が素敵だ。
性的関係が、主に肉体を道具にした遊戯であるとするのなら、その道具にはコーディネートやカスタマイズが凝りに凝ってほどこされればほどこされるほど、遊戯として高められ、肉体と精神が一致した境地に達するのではないだろうか。
2007-12-29
奇妙な古い写真から想像して書かれた創作集。町田さんのギャグなのか狂っているのかのすれすれの想像が花開きまくり。たくさん笑った。だがたまに疲れているんだろーなーと心配になったり。
「うまうまと水を飲んで」とかいう頻出する「うまうま」の部分が好きだ。
2008-04-26
私には脳みそなんかない、仲間と連帯感を感じられて、生きているという自己確認の実感だけがあれば。リストカットも、バンドのファック隊も、人形作りも、右翼活動も、左翼活動も、自衛隊入隊も、格差社会活動も同じ。
というような正直さが小気味よく感じられたり、なんとなく神経に障ったりしながら読む。いえるのは、動き続けられ、話し続けるたいへんに強いエネルギー、それで注目を浴びることが可能であることが彼女の持つ天才だ。
誰もが動き回れるわけではないし話すことが出来るわけではない。ましてや全国規模で活動しようという勇気は持てない。自分に脳みそは無いと自覚しながらそれでも、と発表を続けられるほど強いわけでもない。
容姿の優位性、家庭のあるていどの裕福さ、助けてくれる友人や先輩にことかかない彼女の性格のかわいらしさ。それらは嫉妬を呼ぶ。そうであっても、彼女と同じ問題を抱えてそれに潰されそうで疲れている人も多いはずだ。
彼女は正直なのでそれらの存在にもあまりおびえないだろう。信用できる、なかなかいない人ではないだろうかという感動をおぼえた。
2008-04-26
水道橋博士が私は好きだ。あの年齢不詳の面構えと体型、たくさんのスピード感ある言葉を蓄えている口元、一歩も引かなさそうな鋭い眼と、ユーモアのゆとりある態度、旺盛な執筆活動。
(ちょっと師匠に心酔しすぎていやしないか?ともときどき思うが)
そんな博士の書評集。タレント本に絞ってあるがたまに定義を広げて非タレント本も扱う。ってこの本もタレント本なので入れ子状態?
書評集を読む場合、私はブックガイドとしても楽しむ。今回は杉本彩、加賀まり子、杉田かおる、光浦靖子の著作に興味を持った。杉田かおるのとんでもない無頼女っぷりが気になる。杉田かおるはそれでいて美貌や美声や体型はなお美しいのですごい。すさみが顔に出てあれなのだ。もしすさまなったらどれだけきれいなのか。
ほか、岩井志麻子との遭遇を描写した場面はおなかを抱えて笑った。
シュヴァイツァーや野口英世の伝記を読む代わりに、現代はタレント本を皆読む。役割は同じである。という斉藤美奈子の言葉も引用されている。斉藤美奈子の書評もまとめて読んで、読みたい本をメモしたいと考えた。
2008-04-26
2時間で読めた。うさぎさんはやはりうさぎさん。基本は石のような乙女だ。友人達に酔って性器を批評してもらう場面は数年前にも似たことしていたし、ずっとこのままなんだろうなあ。
なんだかんだいって核心ははずす。恥じらっているのだ、この期に及んで、この人は。だって買春相手と最後には恋愛していたので驚いた。
ついに夫に家出されてしまったまでが書いてあった。恋愛相手その人についてはぼかすんだよね。そしてもうセックスではなく心のほうの話をする。看板に偽りありだ。
その後恋人や旦那さんとはどうなっていってるんだろうとちょっと気になるが。
今回の拾い物は巻末対談。佐藤優、なんだか珍しい感じの人なんだなあ。気になったので読んでみる。
2008-04-26
19世紀パリというキーワードがお好きな人間にはたまらない。鹿島氏ならではのちょっと珍しい本だ。氏が偶然古書店で見つけたという当時のカリカチュアから図像を転載、表面的な風評からつっこんだ先を手短に解説。
2008-04-26
故久世光彦氏最後の小説。それにつけても本当にお亡くなりになったのが残念でならない。
もっとあんな小説やこんな小説とんでもなく変わった視点の本を書いたに違いないのに。
これは実在の事件を下敷きに書かれたものだ。
しかしちっとも忠実ではなく久世氏のイマジネーションが虹のように広がる宮家結婚披露宴詐欺事件もの。
登場人物たちの浮き世離れした妖怪振りが可笑しい。
2008-04-26