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うさぎさんは、まるで石のように硬い。茨姫のようだと言われると書いていたが、
茨の茂みの向こうに隠されているのは石像ではないのか。
卵の殻に包まれて生まれないまま化石になった兎の。
この「私という病」は、少し前に世間を騒がせたデリヘル体験を綴った手記である。徹頭徹尾、うさぎさんは乙女のようである。第一章の実技研修の場面をはじめとして、「体育会系妻」と茶化しながら、出来る限りドライにコミカルにおおまかに書こうとしているのが良く判る。ウェットに、シリアスに、こまかくは、おそらく書けないのであろう。
書いてしまったら、うさぎさんはこなごなに壊れてしまうかもしれない。
それで、どうなんですか。
身体は気持ちよかったの?
その気持ちよさはどんな風だったの?
うさぎさんの状態は?痒くなっただけなの?
ねえ、どうなんですか?ねえ?
これらの質問にはおそらく公式には答えてはいただけないのであろう。非公式でも決して語らないのかもしれない。
うさぎさんは東電OLにこだわる。学業において優秀な成績をおさめ、日本を代表する大企業に勤めながら、心身ともに醜く病んでゆき、場末で売春し、無惨に殺害されたあの気の毒な被害者について。
いぜん小説「イノセント」を読んだときの違和感が蘇る。視野の狭さ。首都圏の中流家庭の一定の収入のある人間達の世界から一歩も出ないファンタジー。酒井順子的と言っても良いかもしれない。(酒井が、自分と同世代ですらない紀宮内親王を気安く堂々と同類と呼んでしまったあの乱暴さには眼を疑ったものだ。)しかし、うさぎさんのほうがずっと問題意識を持ち、人間的魅力があるから、私は彼女の本をいつも読んでいる。
そしてうさぎさんはやはり
全部は語っていない。
まだまとまらないのではないか。まだ言葉にしていないのではないか。
そのうちまとまっても、言葉にはしないかもしれない。一生。
私という病とは言いえて妙である。
うさぎさんはきっと私人うさぎさんであることから一歩も出ないのではないか。
それが病であるとは思わないが、強引に感じた。
やはり東電OLとあなたには共通点がほとんどない。別人であるという点において。ということが結果的により強調されていた。少なくともこの本については、うさぎさんは女全ての公約数にならない。
うさぎさんはうさぎさんだ。私とあなたは違う人間だ。
社会人になって以降のセクハラ体験や結婚、離婚、ホストとのトラブルを詳細に語っているが、それ以前については?
この日本で暮らしている以上、あるはずだ。どんな些細なことでも良いから、非社会人時代のことも語れば良いと思うが、それは彼女にはなかったという。子供を狙ったいたずらの話を聞いたというエピソードも、「ちょっと怖かった」と簡単に済ませる。
そのあたりも、共感を呼ばない理由であった。つまりうさぎさんは他人(この場合、近所で被害に遭った自分と歳の近い子供)に自分を投影しないということだ。好意的に解釈すれば、投影の下手さを自覚しているから語らないという、言い訳はしない正直さゆえなのかもしれない。少なくとも表向きに語らない。
語ったらきっとこなごなに壊れてしまう石像だからだ。
2006-07-16
表紙写真とても綺麗です。
これは民俗学の書物とはいえ、なんと経験者の手記でもあるのです。
じいちゃんはわかいころはそりゃあモテたもんだよ、そのうえ過激思想犯で特高にまでつかまっちゃって、いろいろイワしたもんだよ、話が詰まっているようなもんだと思っていただいても面白く読めます。
遊ぶのならいくらでも遊べるやないかといっても、タダで遊ばせてくれるところはない。昔ながらの夜這い、夜遊び、性民俗は、男は魔羅、女は女陰さえあれば、お互いに堪能するほど遊べる。それが夜這いが近代社会にも残った、根本的要因である。
大正初めには、東播磨のあたりのムラでも、ヒザに子供を乗せたオヤジが、この子の顔、俺にチットも似とらんだろうと笑わせるものもいた。夜這いが自由なムラでは当たり前のことで、だからといって深刻に考えたりするバカはいない。
夜這いは、、現在、神戸市に併合されているかつてのムラなどで戦後しばらくまで続いていたりしたが、教育勅語的指弾ムードと戦争中の弾圧的な風潮、そして、戦後のお澄まし顔民主主義の風潮の中で、次第次第に消えていったのである。 この本を読んでいると、長年の肩こりが解消するように、スーッと楽になっていくのを感じた。赤松のじいちゃん!って呼んでいい?と甘えたくなってしまった。そんな包容力を感じた。
あからさまな性にたいして不潔感を抱くのは、血統をまもらなくてはならず、国家権力に近い上流階級での考え方であり、
たいそうな家名などない労働階級の庶民の性は、
単純に費用の余りかからない愉しみであって、それと教育勅語の管理的な影響は相性が悪いものであろう。
だから、ついついヘンなこと考えてしまって、言ってしまって、やってしまったあげく攻撃されても、
悩まなくていい。
攻撃するほうがヘンだ。タブーで縛ろうとするほうがどうかしているのだ。恥じなくて良いと思う。
恥じるから、猟奇事件を起こすなどおかしなことになるのではないか。恥じるから、20歳をとうに超えても子供をあの手この手で束縛する親が増え、依存する子供も増え、家に火をつけてしまうのではないか。通過儀礼いっさいなしで恥を捨てずに30歳を超えた未熟な大人がふえるのではないか。
それはそうと私は5歳から18歳までけっこうな僻地に住んでいたのであるが、
初潮を迎えたら、
親戚のおばちゃんが「女になったんだね」と真顔で言って、
ちょっとなんだよ余計なお世話だよそのことに触れるなよと、そのときはもやもやして戸惑ったものであるが、
そういえば少ししてなぜか大人のはくようなきれいなパンツを5枚も詰め合わせてその親戚からプレゼントされた。
うわー可愛いパンツだ!でも、なんでくれるんだろう…?とそのときは関連づけて考えなかったが、
あれはコシマキ祝いだったのかーとこの本読んで納得した。他にも腑に落ちることたくさん。
家族全員が独身女の乙女の部屋みたいな妙な家族構成だったので、私の成長はあまり歓迎されていたかったものであるが、親戚が配慮してくれたようだ。時を越えて感謝した。
このような解決をさせてくれるいい本である。
2006-07-16
「まだ、おったんか…」
幾度と無く、孤島に漂流してきたよそ者の女に投げられる言葉。
このせりふは、あの名作、「花園メリーゴーランド」
でも何回か聴きましたね。
そして、女は都の豊かさを夢見るように島の男に語る。見せてあげたいなあ…と。
しかし、女はおそらく都にも戻れないのであろう。
罰されて海に投げ込まれたというほのめかしがあるからだ。
よそ者は殺すというしきたりどおり、女はその島でも葬られようとするが、
何度でも救われる。いつも誰かを犠牲にしながら。
そのどこにも行けない女は、最終巻で島を自分のものにした。一族を増やし、根を張るのだった。
どこか割り切れない、不思議な感情移入のしにくさ。誰にも味方できない、ひりひりとした読後感。これは、はるかむかしの(でも近世くらいかな?)孤島という設定でありながら、主要人物たちの描写が迫真すぎるからだろう。読者は、その物語の中の、誰にもなることは出来ない他人だ。この距離感。みんな自分のことで精一杯なので、結局愛欲さえもきょうだい愛でさえも自分のためだけであることが浮かんでくる。
最後まで漂流者の女、マナメは冷たい。一片も他人に弱さを見せない。
すごい迫力なので一気に読み終わってしまいました。
ただ、ほとんどの登場人物が裸で登場。おっぱいが気になります。邪魔じゃないのか!と。
人間が服を着るのは寒いとか保護とかそういうことではなく、
単に外交のためなのでは…とも思わされました。
同時に読んだ「花園メリーゴーランド」はしみじみ名作でした。
ぜひテレビアニメで見たいです。無理でしょうけど。唐突なラストとかいいよねー。
狭くて暗くて湿った場所はなぜか懐かしいものだ。
2006-07-04
昔のなかよしといえば、いや細かく言って、なかよしDX連載だったのですが、
なんといってもこの長編漫画です。
笑いあり涙あり冒険ありのかなりすばらしい「コミック・ファンタジー」(これは当時のうたい文句)で、
そりゃあもうむさぼるように夢中で読んだものです。
私がこれはと思ういちばんのポイントは、第1部においての主人公セブラン王子の変身場面です。
有史以来のフィクションは数あれど、
かつてこの種の場面においてこれほどまでの衝撃的強引しかし静かな急展開があったものだろうか…。
前半のセブランの悩みはそれであっさり解決してしまい、
それを「やったあ!」とか叫びながら踊ってしまうセブランのあんまりといえばあんまりな明朗さにも衝撃です。
何か長い読み物をお探しで、
まだご覧になっていない方がいらしたら、
かなり面白い物語ですので、
こちらはほんとうにおすすめです。ファンタジー漫画の金字塔です!
※タイトルにあるヘンデク★アトラタンとは、
セブランの馬の名前です。神馬ではありますが…。
2006-08-07
封建社会の完成形は
少数のサディストと
多数のマゾヒストによって構成されるのだ。 血どころか肉片、内臓が思い切りよく飛び散る猟奇残酷時代劇。でも耽美。
主人公の一人、伊良子清玄のナルシシズムゆえに精神的に弱くて愚かで、不幸へ転落していくさまがかえってコミカルだ。
そして、転んでもただでは起きない悪運で、盲目でありながら、師の岩本虎眼の命をも奪うのだった。かなり卑怯な手で。
ほとんど痴呆老人である虎眼のむちゃくちゃな振る舞いを、目上であるからといって簡単に操られてしまう封建制度のゆがみ、さらに虎眼自身もまた、さらに上の人間の前では痴呆もすっかりうせて作り笑いを浮かべ、こびるのだった。命を落としたのは、そこを清玄に衝かれたからでもある。
そして、そういった剣士たちの殺し合いを楽しみとして上から見下ろす権力者、将軍実弟徳川忠長。
冒頭は、その忠長の切腹場面だ。
人間社会のもつサドマゾ志向を、露出した内臓の美で表現した傑作である。
2006-08-20
私は犬や猫を飼ったことはない。
金魚と虫は飼っていた。いずれも寿命は短く、感情なんかない。今好きな動物は、カエルであるが、水槽で世話をするつもりはなくて、出先で見つけて喜ぶ程度だ。ペットショップに行く機会があれば見つめて楽しむが。
犬と猫はなんとなく、人間に近すぎる感じがして怖いのである。
なんだか子供の私の立場を奪われそう。
つまり、自信がなかったのだと思う。自分はペット的な立場に思えて。
私は子供という名の飼育物だったのだ。
さらに、家族は犬猫が嫌いだった。彼らに犬猫を語らせると、罵詈雑言中傷に発展していく。私はその激しさに圧倒されていた。彼らも自分を犬猫と同等に見ていたのだろうか。大人になった今思い当たる。
人とイヌが主従関係にあるとすれば、人とネコの場合は母親と子どものような間柄と考えていいだろう。
これは、オランダ人生物学者による、異種族へのいろいろな形の欲望に関してさまざまな例を引きながら語りつくす珍しい書物である。
そんなにアブノーマルでハードではありません。むしろほほえましく、満ち足りたおとなの余裕がかんじられます。
異種族と接するときの戦慄と理解への喜び。
これもまたセクシャルな衝動と深く根で続いているものであろう。
表紙画のネコを愛撫する男性の顔は作者とそっくり。しゃれが効いています。
2006-08-20
かつて女優中谷美紀はパリ滞在記、アメリカ滞在記、沖縄滞在記を出した。それらは写真集というかたちであった。彼女は旅先での姿を撮らせる女優だ。
しかし、このたびの旅行記は文章である。彼女自身の言葉でつづられ、風景写真もデジカメで撮ったそうだ。
彼女自身のヴィジュアルは口絵ページのラクダに乗る姿、しかも小さい。
それでも抜群に端正なのはやはりすごいことだ。
この本の最後に近づくにつれ、だんだん疲労のためなのか、ハイに壊れてきて、素で文学が結構好きなアート志向の30歳前後の女性が書きがちな、アッパーで攻撃的な言葉が多くなっていくのがおかしかった。親近感があって、同年代の友達から絵葉書を貰って読んでいる感じだ。
また、前半こそは、贅沢を慎んでいたもののおしまいは良いホテルにおいしい食事にお買い物を、値段をあまり気にせず楽しみはじめたのも面白い。マッサージ師の女性にその母の手術代に必要だというお金をチップとして渡したり…という場面では、
「その人が嘘をついていたとしたら?」
と私などはヒヤッと思ってしまった。日本円にして一万二千円なのだから、たとえだまされていても、それほどの損失ではないし、マッサージの技術に感動したのも理解できるけれど。
文章は、丹念にまじめに書かれていて、作詞で発揮していた詩心はここでは薄い。旅行記として充分に楽しめるし、大人の女性として、またヨガの実践者として、哲学を持とうとしているところがとても素敵だ。
1というナンバーが振ってあるからには2も出るのですね?楽しみです。
2006-09-04
頭いい人たちが、学校から給料貰いながら「現代詩は死んだか」なんて議論して時間潰しているあいだに、もっと、はるかに切実なリアルな言葉を必要としている人々がたくさんいる。 そういう視点から、痴呆老人、点取り占い、見世物などなどに見られる言葉の面白さを収集してある書物だ。
中でも、かなりのリアル度で迫ってくるのが第4章の「池袋母子餓死日記 あるいは遺書という暗楽詩」である。
77歳の老いた母と41歳の障害を持つ息子。どう考えても破綻してしまう少額の年金生活、自ら助けを求めることをかたくなに拒んで、誰からも困窮を見破られることなく、淡々と密室で書かれつづけた3年間にわたる長い遺書のような日記には、読むほうとしては言葉を失うしかない。
他人に迷惑をかけることを恥とするにも限度がある。彼女の精神は均衡を失っていたのだろうか。
自分の中にのみ存在する規範。この家の外の誰にも関係はさせない冷静な常識はずれの覚悟の暴走。
私は心底魅入られてその遺書の抜粋を読んだ。
↓全文収録だそうです。読みたいような、やめておいたほうがいいような…。
2006-09-04
成田空港の反対活動に関しての書物?
最近、書店の笙野氏の本の回りにそっくりの名前の贋笙野ともいうべき作家の本が置いてあって、
すごーく紛らわしいので、何回も見直しながら購入しました。タイトルも、まさか今回はそうきたか!てなタイトルですものね。
そこは笙野氏、この本を読んでも成田闘争農民運動のあらましはあまり判りません。そこを知りたかったら参考文献へどうぞ〜て内容です。笙野節がひたすらよどみなく流れる、エッセイ風小説の方の書物です。
「レストレス・ドリーム」ではなくて「居場所も無かった」の方。
そして、4作品収録の中で成田について取材した場面があるのは冒頭1作のみで、
2作目からは痛ましいペットロスの体験談が延々と続く。
愛猫の死に対しての笙野氏の不思議な反応は、ある日自分の死の日を告げられる声を聞き、すっかり死ぬ気になって身辺整理を始め、編集者にその日を告げるほどまでになる。
そのこまかさ、とりとめのなさを楽しむ書物です。
私がこの中で、覚えたのは、
らっきょうは肌のしみにいい!
と
寝起きに誰かの声が託宣のように聞こえるのは私だけではないのだ、
ということでした。
読み終わったとき、なんともいえない充実感を味わいました。
うまく説明できないけれど、笙野氏はやはりものすごい方です。
2006-10-09
職人芸、手技の世界。
5作品収録。
「オムレツ少年の儀式」の甘美な言葉で表現された悲惨さとか
「睡蓮」のあっというまに過ぎ去った人生の悲哀感とか芸術家の葛藤とか、
「水葬楽」のシュールな近未来設定の上の普遍的な、取り残されたものの寂しさというか、
「猫舌男爵」のコミカルな書簡体とか、
「太陽馬」の難解な支離滅裂さが収束していく感じとか…
1冊でかなり読みでがありました。
2006-10-29